ことば・コトバ・言
宗教、文化、時代を超えた、インテグラル・エコロジーにつながる「ことば・コトバ・言」を紹介します。「ともに暮らす家」の兄弟姉妹と、歩んでいくことができますように……。(それぞれのことばをクリックすると、詳細が表示されます)
アンゲラ・メルケル(元ドイツ連邦共和国首相)
「神の被造物であるわたしたち人間一人ひとり異なっているという事実が、わたしたちを導いています」
「神の被造物であるわたしたち人間一人ひとり異なっているという事実が、わたしたちを導いています」
神の被造物であるわたしたち人間が一人一人異なっているという事実が、わたしたちを導いています。そのことがわたしたちの社会を豊かにしているのはすばらしいことです。ですからわたしたちは、人によってできることが違うからといって、嘆いたりするべきではありません。いろいろな能力や技術や弱さをもった人たちの共同体から何かが生まれる、それが人間的な社会なのです。そのためにわたしたちは、いつもくりかえし関わりあわなければいけません。
アンゲラ・メルケル(1054年生、元ドイツ連邦共和国首相)、2017年1月23日のヴュルツブルク司教区の式典出席時のスピーチより(出典:『わたしの信仰 キリスト者として行動する』新教出版社、2018年)
ワンガリ・マータイ(ケニア出身の女性環境保護活動家)
「全被造界を、その多様性、美しさ、不思議そのままに、抱きしめることがわたしたちの使命です」
「全被造界を、その多様性、美しさ、不思議そのままに、抱きしめることがわたしたちの使命です」
木はやがて、民主的な闘いのシンボルになりました。蔓延する権力の濫用、腐敗、不適切な環境管理に挑むべく、市民が結集しました。……政治犯の釈放、民主化への平和的移行を求め、平和の木を植えました。
グリーンベルト運動を通じ、膨大な数の普通の市民が集結しました。そして行動を起こし、変革する力を手に入れました。恐怖、無力感に打ち勝つことを学び、民主的権利を守り抜く行動を起こしたのです。
(中略)
……わたしたちに求められているのは、地球が負った傷がいえるよう助けこと、そしてその過程で、わたしたちは自身の傷をもいやすのです。まさに全被造界を、その多様性、美しさ、不思議そのままに、抱きしめることがわたしたちの使命です。それがかなうのは――。わたしたちは、いのちで結ばれた大家族の一員である、その自覚を取り戻さなければならないと気づくことからです。わたしたちはその大家族と、進化の歩みをともにしてきたのです。
歴史の中で人類は、新たな意識レベルへと歩を進め、より高い道徳的境地に到達するよう求められる時が到来します。わたしたちの恐怖を捨て去り、希望を与え合う時です。
今こそ、その時です。© The Nobel Foundation 2004, Published with permission.
ワンガリ・マータイ(1940-2011年、ケニア出身の女性環境保護活動家、政治家)、2004年ノーベル平和賞受賞時の記念講演(Nobel Lecture)より一部抜粋
田中正造(明治時代の政治家)
「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」
「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」
田中正造 -人権擁護と自然保護の先駆者
「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」
これは明治時代の政治家で足尾銅山の鉱毒問題の解決に一生をささげた田中正造(1841〜1913年)が、亡くなる前年1912年の日記に記した言葉です。
19世紀の後半、足尾銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響を与え、足尾の山林の荒廃が洪水の被害を大きくしました。また、渡良瀬川から取水する田園や、洪水によって冠水した田畑で農作物は枯れ、地域住民の健康被害が広がりました。しかし、当時の「殖産興業・富国強兵」政策のもと、大地の叫び、人々の叫びはかき消され、多くのいのちと尊厳が蹂躙され続けました。日本で初めての公害問題と言われる足尾銅山鉱毒事件、田中正造はいつも苦しむ農民たちとともにありました。62歳で投獄された際(生涯4度目の投獄)に、初めて新約聖書を読み、晩年の思想に影響を与えたともいわれています。
人権擁護と自然保護の先駆者としても知られるこの先人の言葉は、100年以上たった今も、わたしたちの心に問いかけるものがあります。
参考:『 田中正造ー日本初の公害問題に立ち向かうー』(あかね書房ー伝記を読もう⑤、2016年初版)、『新・田中正造伝−現代に生きる正造思想ー』(随想舎、1992年)
中南米の先住民族
<ハチドリのひとしずく>「わたしは、わたしにできることをしているだけ」
<ハチドリのひとしずく>「わたしは、わたしにできることをしているだけ」
ハチドリのひとしずく
森が燃えていました
出典:辻 信一(監修)『ハチドリのひとしずく――いま、私にできること』(光文社、2005年、PP.4-12)
森の生きものたちは われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」
中南米の先住民族が語るクリキンディの話は、今、危機的状況にある地球の生命を取り戻す営みに、さまざまなやり方で取り組んでいる世界中の人たちのストーリーとなっています。
環境保護活動と女性のエンパワーメントの取り組みで、アフリカ女性として初のノーベル平和賞受賞者となった故ワンガリ・マータイさんは、日本語の「もったいない」を「MOTTAINAIキャンペーン」として、地球環境に負担をかけないライフスタイルを広め、持続可能な循環型社会の構築を目指す世界的な活動を立ち上げることになりますが、「わたしは、ハチドリになります」と述べたことも有名です。
日本でも、ハチドリの名前は、有機農業、再生可能エネルギーなど、オルタナティブな世界を目指す多様な運動に使われています。
源信(平安時代中期の天台宗の僧)
「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし」
「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし」
足ることを知らば貧といえども富と名づくべし
出典:源信『往生要集 全現代語訳』 (講談社学術文庫、2018年、P.71)
財あるも多欲なるはこれを貧と名づくべし
もし財業に豊か(財を作るに専心する)なれば諸苦を増すこと
竜の多首なるは酸毒(苦しみ)益すがごとし
○意味
足ることを知っていれば貧しくても富んでいるといえます
しかし、財産があっても欲望が多ければ貧しいといえるでしょう
もし財産を作るのに忙しければ苦労が増えます
それは、竜の首が多ければ苦しみが増すようなものです
ティク・ナット・ハン(ベトナムの禅僧)
「あなたの歩む一歩一歩の中に平和を見いださなければなりません」
「あなたの歩む一歩一歩の中に平和を見いださなければなりません」
人生でいちばん大切なことは
ティク・ナット・ハン(1926-2022年。ベトナムの禅僧。著名な平和活動家)
安らぎや喜びという宝を見つけ
それを他の人びとや生き物と分かち合うことです。
そしてそれを得るためには
一歩一歩の中に平和を見いださなければなりません。
つまり、いちばん大切なのはあなたの歩きかたなのです。
(仙田典子訳『ウォーキング・メディテーション』渓声社、1995年、PP.20-21)
To bring about real change in our global ecological situation our efforts must be collective and harmonious, based on love and respect for ourselves and each other, our ancestors, and future generations(試訳:地球規模のエコロジカルな現況に本物の変化をもたらすには、わたしたちの取り組みが自分自身への、そして互いへの、さらには先祖と将来世代への、愛と敬意に基づく、集合的で調和的なものでなければなりません)
(“The World We Have: A Buddhist Approach to Peace and Ecology”, California. USA, 2004, P.68).
米国先住民のことわざ
「大地は祖先から譲り受けたものではない。子孫から借りているものだ」
「大地は祖先から譲り受けたものではない。子孫から借りているものだ」
We do not inherit the earth from our ancestors, we borrow it from our children.
米国先住民(ナバホ族)の格言として知られています。
沖縄の文化「ゆいむん」
「恵みがやってくる見えない海のかなたに、恵みの源であるニライカナイ(神の国)がある」
「恵みがやってくる見えない海のかなたに、恵みの源であるニライカナイ(神の国)がある」
ゆいむん
奄美・沖縄の島々は、その地理的特性から独自の南島文化を醸成してきました。その根底にある深い自然観の一つが「ゆいむん」(寄りもの)ということばに込められた世界観であり、環境観です。
小さな島々には、海からの漂着物が多々流れ着きます。それを「ゆいむん」といいますが、それは単に漂着物を意味するだけでなく、豊かな恵みを意味し、その恵みがやってくる見えない海のかなたに、恵みの源であるニライカナイ(神の国)があると考えるようになったのです。無論、漂着物のすべてが島人にとって有益なものとは限りません。ゴミや有害な薬品類を含む容器や、戦闘機の燃料タンクのような危険物も流れてきます。しかし、その同じ海はまた、多くのよいものを島にもたらすのです。人間の世界である陸地が汚されても、海に行けば恵みにありつくことができ、海によっていのちをつないできたのです。ですから、奄美・沖縄の人は、よきも悪しきも「ゆいむん」を分け隔てなく受容してきました。人間の判断ではなく、与えられるものを工夫して利用する文化。思い通りのものでなくとも活用し、どんなものをも排除するのではなく受容して共生し、人であれ物であれ自然現象であれ、ともに歩むという生き方です。
志樹逸馬(詩人)
「風のそよぎにふれるとき/万人のささやきを聞きます」
「風のそよぎにふれるとき/万人のささやきを聞きます」
大空を仰ぐとき
地にある万人の瞳を感じます風のそよぎにふれるとき
出典:志樹逸馬(1917-1959年)『新編 志樹逸馬詩集』(若松英輔編、亜紀書房、2020年)
万人のささやきを聞きます
八木重吉(詩人)
「こうふくは しずかなせかい」
「こうふくは しずかなせかい」
こうふくは しづかなせかい、
出典:八木重吉(1898-1927年)『八木重吉全詩集Ⅰ』(筑摩書房、1988年、pp.219-220)
ほのほがもえる 木がそだつ
そのこころをしる さひわひのひとよ
オスカル・ロメロの祈り
「自分のものではない未来を告げる預言者」
「自分のものではない未来を告げる預言者」
時として、一歩引いて、遠くから物事を眺めるといい。
神の国は、私たちの努力の結果を超えるだけでなく、私たちの想像をも超えている。
私たちの生涯では、神のみわざである、驚きの計画のわずか一片を実現するのみだ。
私たちの行うことに完全はない。
すなわち神の国は、私たちをはるかに超えるもの。語るべきものを語り尽くす声明などない。
信仰を表し尽くす祈りなどない。
完徳をもたらす信仰告白はない。
あらゆる問題を解決する司牧訪問などない。
教会の使命を完全に果たすプログラムはない。
すべてを含めた目標、目的などない。肝心なのは――
いつの日か成長する種をまくこと。
まいてある種に水をやり、ほかのだれかがその世話を続けると信じること。
やがて発展するものの土台を築くこと。
今ある可能性を何倍にも膨らませる、パン種を加えること。
私たちは何もかもを行うことはできないが、それが分かれば解放が味わえる。
そうして私たちは、何かが行えるように、しかもふさわしく行えるようになる。
完成がかなわずとも、それは始まりとなり、道の途上の一歩となり、
神の恵みが加わって、残りを完成してくださる機会となる。
私たちは完成を見ることはないだろう。
だがそれが、棟梁と大工との違いだ。
私たちは大工であって棟梁ではない。
しもべであって、メシアではない。私たちは、自分のものではない未来を告げる預言者なのだ。
原文”Prophets of a Future Not Our Own” 聖オスカル・ロメオ(1942-1974年、エルサルバトルの大司教。ミサ中に銃撃され殉教)を思い起こすと評価される祈り。米国デトロイト大司教区の司祭葬儀ミサのディアダン枢機卿の説教に引用された、ケネス・アンテナ―神父(後司教、1937-2004年)の作(1974年)。教皇フランシスコはこれを2015年12月21日の教皇庁の高位聖職者に向けたクリスマスメッセージの中で引用した。神の創造のわざにあずかる人間の姿勢について、深い示唆を与えてくれる。
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