風の家を訪れて――
『見よ、それはきわめてよかった』を手にして思ったことを、東京教区の青年信者が寄せてくれました。
長野県小谷村には信州風の家があり、ここでは風の家運動をしている伊藤神父が建てた古民家風の素敵な家があります。
ここから徒歩5分くらいのところには共働学舎というプロテスタントのNPOの家もあります。家は自由な雰囲気でカトリックの信者がいつも訪れています。私が初めて風の家について知ったのはNHKの番組で、実際に行ってみたのは新潟出身の友人の誘いを通してでした。
最初に伺ったのは2022年の10月頃で、友人と4人のグループでいきました。共働学舎の田んぼで脱穀をしました。牛舎を見学したりもしました。夜には音楽を楽しみ、皆で食卓を囲み、労働の疲れと実りを分かち合います。満点の星空を愛でたりしているうちに眠くなり、朝に起きればミサに預かるのです。この素朴な生き方の中に、いのちの光、いのちのすばらしさを感じます。
これまで3度訪れたのですが、風の家に行くたびに自分が回心するように呼び掛けられているような気がします。
私は事務職として働いていて、個人主義的なところに普段身を置いていますが、風の家に来てから取り組む農業となると連携や会話があります。普段から仲の良い友人や初めて出会う共働学舎の人との農作業は、私を深く満たしてくれます。色々な立場、年齢、境遇の人と黙々と農作業をすることで与えられる気づきは多くあります。そして労働の疲れや人と触れ合って得る充足感には、自分が人間的に満たされていない部分を照らしてもらうことができます。
穏やかな招きの風の流れに乗せられていく気がしたことがありました。今年のゴールデンウィークは、知り合いの宣教師を含め大学の後輩や教会の青年活動を通して知り合った友人と風の家を訪れました。北海道出身の友人は、共働学舎の鶏小屋で自由に動き回る鶏を見て鳥のヒエラルキーの話をしていて、若さに関係なく自然を体感として知っているひともいるんだなと気づかされました。自由に広いケージで飛び回る鳥の姿は、伊藤神父の説明する商業用に固定される鶏たちとはまるで違いました。卵をスーパーで買う時には値段でしか見ていませんでしたが、この日からどこかで疑問を持つようになったのです。
ゴールデンウィーク中に何をしたかという話になり、鶏たちの話をするとある同僚がファストフードはやめたという話をしてくれました。辞めた理由は動物の扱い方や生産プロセスに疑問を持ったからだそうです。安いだけではなく生産された過程も想像できるようになった自分と、善意ある人の意識が出会ったことで生まれた会話でした。もちろん、値段の高い卵を買い続けることはできないと思います。しかし、無知の状態から想像できるようになった自分にも、何も知らなかった自分にも神様はたえず恵みを与えてくださっています。
私は、職場や青年活動の場で様々な背景の人とかかわっています。育った国や家庭、またそれぞれの考え方や人生での苦労も違います。その違いの中でも共に働き、教会ではミサに預かることは私たちを “一致” することに招いているとよく感じます。人生の歩みや年齢が異なる人がいることで、一つのことを取っても本当に多様な見方ができるのです。これを引き出すためには交わりをもち、共に時間を過ごすことも重要です。会社であれば社内だけでなく社外で互いのことを知ることも大事かもしれません。教会であってもミサのために集まる時だけではなく、交流をもち、今ある姿で互いに受け入れ合うことが共同体の基盤を強くすると感じています。こうした共同体をもつことで初めて環境問題のような規模の問題にも取り組んでいけると思います。
(2024年7月、内山七海)